【コラム〜留学記〜玲子の会NEWSより】
 


【第1回・人生変わった96年の夏〜留学のきっかけ】 (2004年9月発行「玲子の会NEWS」第4号より)

 これまでもブリュッセル留学時代について、書いてみてはどうかと勧められていましたが、私自身迷っておりました。それは、今は現在〜未来のことを考えて生活しているのに、過去を振り返る文章を書く意味があるのだろうかということ、また、6年間のたくさんの大切な思い出を文章ではとても伝えきれないと思ったからです。しかし、ご支援いただいている会員の皆様にとって、私の留学体験が音楽に親しんでいただける機会になれば幸いと思い、少しスポットを絞って留学時代のエピソードの断片を書いてみることに致しました。最後までご一読いただければ幸いです。

オイストラフ先生との出会い
 95年12月の日本国際音楽コンクールで、私は入賞し、イーゴリ・オイストラフ先生は審査副委員長をされていました。受賞パーティーで初めて先生にお会いし、「他の入賞者が本選までの4ステージの中で得意不得意の曲の差が目立った中で、君は全ての曲の完成度が一番高かった」と言って下さったのを覚えています。また、私がその翌年(96年10月) にヴィエニアフスキ国際コンクールを受けたいと思っているとお話をしたところ、プログラム選曲の相談にも乗って下さり、こんな世界的に有名で偉大なヴァイオリニストなのに、なんて温かく気さくで素晴らしい人柄なんだろう、とびっくりしたのが先生に対する第一印象でした。

留学したいっ!
 桐朋の研究科在学中、素晴らしい先生と仲間に恵まれ、私は弦楽四重奏に夢中でした。4人でカルテット留学の話もありましたが、同じ所に四人一緒に留学するのは意見が合わず難しく、それなら1人でどこか外国、できればヨーロッパで勉強したいと漠然と思い、江藤俊哉先生に相談したのが96年7月。江藤先生が「この秋からイーゴリ・オイストラフ先生がブリュッセルで教えはじめるけど、彼は君の演奏を日本国際音楽コンクールで聴いているし、一度直接電話で連絡してみてはどうか」と言われました。オイストラフ先生、ブリュッセル、なんかよさそうかもしれない…。

 江藤先生にご相談した直後から、私はアメリカのサンタ・フェとラ・ホヤ両室内楽音楽祭に、例の弦楽四重奏でレジデンス・カルテットとして招聘を受け、アメリカに1カ月間行き室内楽に没頭していました。カーター・ブレイ(NYフィル首席チェロ)、ディヴィッド・シフラン(クラリネット、リンカーンセンター芸術監督)、大山平一郎、チョーリャン・リン、ディヴィッド・フィンケル(エマーソンSQ)の各氏などの世界的な音楽家と、毎日のように演奏会で共演したりレッスンを受けたり、一緒にホームパーティを楽しんだりプールで遊んだりと、私にとって初めての海外での音楽祭出演は、音楽的刺激いっぱいの中、本当に毎日楽しく充実していました。

アメリカでドイツ語に四苦八苦?
 ところで、アメリカ出発前に江藤先生を通じてきいたオイストラフ先生のドイツ・リューベックのお宅の電話は、お留守でずっと通じず困っていました。そんな中、ふと見た夏期講習会のパンフレットで、先生が7月末にオーストリアの田舎のマスタークラスで教えておられることを知りました。とりあえずその講習会事務局宛にオイストラフ先生に連絡取りたいとFax したところ、先生からすぐ「私はホテルドナウxx号室にいるので、夜部屋に帰った頃、電話を下さい」とお返事を頂きました。

 私はサンタ・フェで滞在していた大学寮で(アメリカとヨーロッパ間の時差の関係で)早起きして、朝のラジオ体操ならぬ太極拳をしている人たちの横を通って公衆電話のあるカフェテリアの建物に走り、日本とかけ方の違うテレホンカードに四苦八苦しながら、なんとかホテルドナウに電話。ところが英語で「オイストラフ先生につないでほしい」とフロントのオバサンに言っても、「xo*#+%=?!…」と(私の分からない)ドイツ語で何か言われてガチャッと切られる。何度かけ直しても切られ、しまいにはうっとおしがられて無言で受話器をずっと放っておかれる始末(国際電話なのに! )。困った私は日本の両親に「ドイツ語旅行会話の本を買ってきて電話用のフレーズを調べて!」と依頼。そして再び手ごわいホテルドナウにトライ、今度は「ツィンマーヌンメル xxビッテ!イッヒミュヒテシュプレッヒェンミットヘルンイゴールオイストラフ!」と思いきりカタカナドイツ語ながら必死で訴える。すると、びっくりするほどあっさりつないでくれて、「ハロー?」とオイストラフ先生の声が!英語が通じてほっとした私、ダーッと「あなたに習いたい!」といきなり直訴したところ、先生は「君のことは良く覚えている、喜んで生徒にするから来月(9月)の入学試験にブリュッセルに来なさい」といって下さったのです。バンザイ!でも、来月って・・?私がアメリカから帰国して一週間後です!でも本当に大変だったのはそれからでした。

「余裕を持って!」
 早速、先生の赴任されるブリュッセル王立音楽院に入学要項を請求したところ、送られてきたフランス語の書類にはオイストラフ先生の名前が見当たらない。先生に連絡すると「君は重大なまちがいをしている!ブリュッセル王立音楽院はフレンチ系とフラマン系の2つあって、自分はフラマン系の方で教える」とのお返事。フラマン?同じ名前の学校が2つ??言われた通りに今度は同じ音楽院の住所表記をフランス語ではなくフラマン語で書いて願書を取り寄せると、送られてきた書類には見たことのない言語がびっしり。フラマン語というのを知ったのはその時が初めてでした。

次に、日本のベルギー領事館に留学ビザの取得方法を問い合わせると、警察の無犯罪証明書と日赤病院の健康診断書が必須で、それにはまず本人が警察と病院へ出向き、そのあと結果が出るまで最短でも3週間かかるらしい。私がアメリカから帰国して1週間でベルギーへ行くので何とか1週間で発行できないかと、両親が直接領事館に出向いても、美人のベルギー人領事館員に「余裕をもって!」と繰り返されるのみだったそうです(この「余裕を持って!」という言葉、実は留学後いかにもベルギーらしい言葉だなあと感じることになりますが)。結局、8月末アメリカから帰国した翌日に、私は警察で左右全指の指紋をとられ(まるで犯罪者みたい・笑)、病院でレントゲンなど10種類程の検査を受け、とどめに巨大な注射器でフーッとなりそうなくらい血を抜かれました。その後1週間で入試の曲を練習して、ビザの出ないままベルギーへ飛んだのです。
(【第2回・入試からポーランドへ】 へ続く)

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